織田信長の尾張統一

織田信長の尾張統一

類まれなる才能を発揮し、一代で日本の半分を制した織田信長
戦国の異端児は、どの様な環境で生まれ育ち、出身地・尾張の地を統一したのか?
「大うつけ」と呼ばれた信長の青年期を見てみる。

織田家の基礎を固めた信長の父・信秀

元々は神官だった織田家

織田信長は天文3年(1534)、織田信秀の嫡男として生まれた。
元々、織田家は越前の織田剣神社の神官という家柄だったが、越前の守護となった斯波家(しば)に仕え、やがて斯波家が尾張の守護も兼ねるようになると、織田一族も尾張に移住し、同国の守護代となった。

商人としての力も発揮した織田家

信長の家の織田家は、清州織田家に仕える三奉行の家柄だったが、祖父の信定の代から飛躍が始まっていく。
信定は伊勢湾の港湾商業都市だった津島を押さえ、商人や職人集団を支配下に収めた。
そして父の信秀は対馬で得た経済力を背景に勢力を拡大し、美濃の斎藤道三や駿河の今川義元とも戦った。
主家を凌ぐ力を得た信秀だったが、天文20年(1551)、志半ばで亡くなってしまう。

「大うつけ」と呼ばれた若き信長

父の死後、信長が家督を継ぐ

信秀の死後、嫡男の信長が織田弾正忠家の家督を継いだ。
だが彼の「うつけ」と呼ばれた奇妙な振舞いは、織田家中に不安と不満を与えた。

自由奔放は振舞い

若き日の信長は服の裾を外し、縄の帯を締めた奔放な格好で領内を練り歩いていたという。
町の若者や仲間たちと栗や柿にかぶり付いたり、河原で相撲に興じた。
このような行状を諫めるため、信長の傳役だった平手政秀が自刃するほどの「うつけ」ぶりだったと云われる(諸説あり)。

柔軟性の高い信長らしい「うつけ」ぶり?

だが信長の常識や習慣にとらわれない姿勢は、新しいモノを積極的に取り入れていくその後の信長の在り方に繋がっていった。
また「うつけ」の振舞いは、敵を欺く為の演出だったとも云われている。

信長が清州城に入る

天文23年(1554)、尾張守護の斯波義統が清州織田家の織田信友に殺害される事件が起きた。
すると信長は叔父の信光と協力し、信友を討って清州城を手に入れる。

信長を信用しない重臣ら

だが林秀貞や柴田勝家といった織田家の重臣は、信長の器量に疑問を抱いていた。
信長を廃して聡明な弟の信行(信勝)を擁立する動きが活発になり、弘治2年(1556)8月、両者は激突する。

信長・尾張統一

戦いは信長が勝利し、信行一派は降伏した。
だが信行は再び信長に逆らい、信長に誅殺されてしまった。
そして永禄2年(1559)、信長は岩倉織田家の織田信賢を破り、26歳という若さで尾張統一を果たす。


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